希望退職勧奨に応じたワケ

アイワかたりべ


平成大不況というのは、ウィキペディアによるとバブル景気後の1990年代初頭から2000年代初頭、いわゆる「失われた10年」のことを指す、ということです。

が、平成大不況前半のアイワはまだ活気がありました。

私、1993年には結婚して家を買い、94年に長女、97年には次女は生まれています。
先行きが見通せない状況だったとしたら結婚はともかく家もしくは子作りは控えたかも知れません。
この時点ではまだ年功序列や右肩上がりは続くと考えられていました。
成果主義・能力主義で評価、みたいなスローガンはありましたが、やってはいるもののあんまり浸透していませんでした。

他所では景気の悪化が懸念されていたと思いますが、アイワではいち早く生産拠点の海外進出を強力に推し進めていたこともあり、同じ性能なら絶対にアイワのほうが安い。
高い競争力を武器にシェアを伸ばし、売り上げを確保していました。

少々の不景気ならばむしろ、人は安い商品に流れてくるのでむしろ好都合なくらいでした。

しかしそれが長引くとなると話は別です。

不景気があまり続くと、人は本当に安いものしか買わなくなります。
終末期のアイワが安い商品しか作らなくなったのは、それしか売れなくなったからです。
ラインナップの中で、一番安いものばかりが売れる。
となればそっちばかり作りますよね、企業としては。
安いほうのラインナップがどんどん充実してしまってましたね。
いや、実際は高付加価値商品にも目を向けてもらおうと様々な試行錯誤を繰り返してはいました。
でも、ラジオとカセットを組み合わせてラジカセ、で成功した過去の2番煎じ的なものばかりだったかな。

時代背景もあったとは思いますが、ただ単に組み合わせただけではなくて、それが便利だったから売れたわけです。
それまではラジオのイヤホンジャックとテレコのラインインジャックをコードでつないで録音していた。
ラインジャックがないテレコも多く、となればマイク端子につなぐので抵抗入りコードを使わないといけない。
録音時以外は別々に持ち運び。電池もコンセントも別々。音量調整にも気を使わないと音割れor聞き取れない。
失敗せずに録音できるようになるにはそれなりの試行錯誤を繰り返して体得する必要がありました。
失敗しないようになっても、いい音とまではなかなかいかないものでした。
組み合わせたことによってどれだけ便利になったことか。

たとえばテレビデオ。
ラジカセと同じ概念ではだめ。
録画してるときに他の番組が見られない、とか画面が消せない、なんていう商品もありました。
だったらテレビとビデオ、別々のほうが「便利」なんじゃない?
組み合わせりゃいいってもんでもない。使う人の利便性にも心を配るのが開発者の使命でしょ。
それでも17㎡のワンルームに住む人には1チューナーで安くて場所取らなくて役立ったかも知れません。
でもそれをニッチと一緒にするのはちょっと違う。

そもそも不景気なんですから、オーディオなんていう別になくても死なないものは厳しいんですよね。

それでも、心から「欲しい」と思えるようなものを作れば、必ず食費を削ってでも「買う」って人はいるものです。

そこへの転身は難しかったかな、当時のアイワには。
海外生産拠点を「いち早く」進めてしまっていましたから。
シンガポール、マレーシア、グゥエント・・・
そっちは置いといて、南北宇都宮工場と岩手工場もあったわけですから、国内高付加価値商品生産もやろうと思えばできたわけですが・・・。

で、結局、大勢としては海外生産を軸とした低価格路線、薄利多売、で突き進んでいきました。

が、他社がいつまでも指をくわえて見ているはずもありません。
中国・韓国をはじめとしたアジア諸国に生産拠点を設けた日系企業は数知れず。
結果として数年で日本製品は品質をほとんど落とさずに低価格化していきます。

さらに、海外生産を推し進めることにより、為替の変動に晒されるようになっていきます。

97年、山一証券が破綻。
98年、1ドルが一時135円台まで上昇。円安ならば製品を輸出すればいいのではないか、と思ってしまいますが。

99年に入ると世界的な不景気が顕在化し、その中でシェアを伸ばす日本製品が目立つようになったことから一転して急激な円高が進みます。
99年12月にはドル円が102円台まで跳ね上がりました。

わずか1年で33円。
これが破綻への最大のターニングポイントだったとアイワ社内では伝えられていました。

円高なら海外生産した部品をちょー安く仕入れてますます儲かりそうに思えますが。

当時まだアジア圏で良質な電子部品を生産できる国は日本をおいて他になかったので、生産は現地でおこなうものの主だった部品は日本で調達して送る、という状況でした。

売れ行きを見ながら次の製品の生産計画を立て、部品を調達します。
海外生産なら税関手続きを経て1~2か月後には使えるよう部品を船便で送ります。
生産後製品が船便で届き、店頭に並ぶまでを考えると、早くても2~3か月はかかります。
その間に円高になったからと言って部品を買い控えたり、生産を止める、というのは余程の熟慮を重ねた上での英断が必要です。
売れ筋の製品が入荷しないとなれば、販売店様からの想像を絶する突き上げが来るのは必至。
その後の売れ行きにも影響してきてしまう。
アイワは資本に大手販売店も入っていましたので、逆らうことなど考えられない。
工場側の雇用の問題も、こじらせると国家間の問題に発展しかねない。
自社で部品を生産しているなら原価を抑えて直送するなど対策も立てられるが、アイワは金型成型部品のみ。

八方ふさがりな状況で、高い部品で作った製品を安く売る、という状況がしばらく続きました。

この頃からです。
アイワは社内で希望退職者を募るようになりました。たぶん2000年終盤だったかと。

それまでは不景気で業績は芳しくない状況、としながらも会社のために貢献した社員のため、として賞与などはそれなりに維持されていましたし、瞬間風速的に利益が上がった時には一時金が出るようなこともありましたので、急激に情勢が悪化したということを物語っています。

しかし、1回目の募集ではあまり応募は多くなかったそうです。
まぁ、急にいわれても、ね。

2001年に入ってしばらくして2回目の募集。
退職金は倍額が提示されていたと思います。
優秀な人材が辞めていきました。
優秀なだけに不景気でも転職先が決まるのでしょう。

でも俺は最後まで骨を埋めるんだろうな、きっと。と思ってました。
だって、好きで入った会社だし。

しかし、この2回目の募集と3回目との間のある出来事が私の気持ちを変えたのでした。

それは、社内向けに開催された新製品発表会でした。

当時、情報機器事業部に所属していた私は、情報家電の先駆けとも言うべき製品が出るのではないかという話を聞き、期待を込めて、会場である神田錦町の新本社ビルに向かいました。

この神田錦町の新本社ビルですが、この時点ではまだ本社ではなく、希望退職者がいなくなったあと池之端にある本社ビルを売却し残った社員が移転してくる予定のビルでした。
三菱銀行から借り受けたという話を聞いていましたが、行ってみると茶色くくすんだ築40年は経っているであろう古いビルで、不忍池に面したタイル貼りの自社ビルからは明らかに見劣りする都落ち感満載のビルでした。

もっとも、池之端の前に本社があった台東区上野のビルにもいたことがあり、そこはラオックスから借りたもっと規模の小さいビルだったので、それよりはぜんぜん大きいし、まぁまぁじゃない?なんて思ってました。

期待の新製品については新社長がじきじきに説明するということだったので、それもいままでになかったことでわくわくしていたのですが、肝心の新製品を見てすっかり落胆してしまいました。

もうあんまり細かいディティールは覚えていないんですが、ひとつは液晶ディスプレイ付きDVDプレイヤー、もうひとつはMP3プレイヤーだったと思います。
もうひとつは思い出せません。たぶん、もっとつまらないものだった可能性が。

DVDプレイヤーは、12インチ程度の液晶ディスプレイの足元にデスクトップ用のDVDドライブをくっつけたような代物だったと思います。
それでテレビも見れないのに予価3万円くらいじゃなかったかな。
他社のポータブルプレイヤーよりは安い、っていう程度でしょ。

MP3プレイヤーはちょうど持ち運べないくらいの大きさなのに、スペックが低かったような。
持ち運べないなら家にある曲全部入るとかだったら価値が感じられると思いますが、そうではなかった、みたいな。
それともパソコンにつながないと操作できないんだったかな。
もはやがっかりしたことしか覚えてないんです。

そうだよな、優秀な社員は辞めてったからな。
変に期待してた俺がばかだったってことか・・。

会場入りが遅かったので、後ろのほうで立ち見だったんですが、その場でへなへなと座り込んでしまいそうでした。

もうこの会社はだめだ。
あんな商品で起死回生を図ろうというのか。
説明してた社長。ソニーから来てるんだから高学歴なんだろうに、こんなんで売れると本気で思ってるのか。
残る社員を鼓舞するために自ら説明に立ったところは意気に感じるけど、売り物があれじゃいくら社員にはっぱかけたって売れないものは売れない。
販売台数予想が書いてあったけど、きっと不良在庫になるだろうな。

アイワはいい商品を安く提供してきたから成長してこれたんだ。
製品がよければ宣伝力がなくたって口コミで売れる。
なにより店員さんが自信をもってお勧めしてくれる。
最近は安ければ売れるって方向に偏ってはきてたけど。
それでもそれなりの品質は維持してきていたのに。

その日、家に帰って奥さんにこう言いました。

「俺、会社、辞めようかと思う。」

まさか、18年も務めてきた会社を辞めようと思うことになろうとは。
自分でもびっくり。

そして、3回目の希望退職募集。
ついに私も応募することに決めたのでした。

2001年7月31日を持って退職

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